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悪名一番勝負
大映/95分★★★★
1969年(昭44)12月27日公開<カラー・ワイド>
脚本 宮川一郎
マキノ雅弘
監督 マキノ雅弘
撮影 今井ひろし 音楽 鏑木創
出演-勝新太郎・江波杏子・安田道代・田村高廣・山本學・小川真由美・津川雅彦・河津清三郎・金子信雄・内田朝雄・芦屋小雁
あらすじ(MovieWalker)
大映での「悪名」シリーズ最終作。

前作「悪名十八番」以来、約2年振りの「悪名」。
前年の年末に田宮二郎が映画界を追放され、シリーズ存続は無理ではの中での最新作。その強引な製作には斜陽になった映画界の窮状が窺える。

今回は監督にマキノ雅弘を招聘。マキノは東映で5年前から高倉健主演「日本侠客伝」を監督してヒット。この年の8月には「日本残侠伝」シリーズを監督していた。世の任侠ブームにあやかろうと、勝新の「悪名」を復活させたい背景が合っただろうと思われる。

なのでそれまでの朝吉とは異なる人物像となっている。身売りをする江波杏子を抱こうとしたり、自ら先にケンカ相手に手を出したり、それまでの朝吉像ではないキャラに変貌している。またラストの果し合いも何の躊躇いもなく相手を刃で斬りつけるし、痛手も負う。

ただ一本の映画と見ると、とても良くできている。筋運びを第一義とせず、登場人物一人ひとりを丁寧に造形して描く、マキノ雅弘監督の資質が現れていて見ていて気持ち良い。

良家の娘から女壺振りに転身した江波杏子。チャキチャキの江戸っ子女の横山道代。金子信雄の三国人。津川雅彦のドモリやくざ。失明寸前の田村高廣。内田朝雄の女好き代議士。

型通りのパターン化した悪者やヒロインは登場せず、監督自身の登場人物に対しての優しい目配りを受けた人物たちのアンサンブルが素晴らしい。

マキノ雅弘自身が脚本に名を連ねている事からもそれは理解できる。大映の監督たち、田中徳三・三隅研次・森一生・池広一夫らは共同脚本はほとんどない。

大映末期での佳作の一本だろう。

余談だが最初の方で、セットの土手の上を蒸気機関車が走り抜けるカットがある。ロケではなくセットの中なのに。
これまでも「若親分」シリーズとかで、セットでの似たようなシーンはあったが、機関車自体は登場せず客車から漏れる照明や、黒煙で表現されていたが、本作には機関車自体がロングで走り抜けている。これはグラスワークによる特殊撮影だと思う。機関車自体はミニチュアで、鏡を駆使してワンカットに同時に写し込む手法だ。

クレジットを見ると助監督が黒田義之。大映1966年に合計三作作られた「大魔神」シリーズの特撮監督である。


以下Wikiでのマキノ雅弘より転載
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マキノ 雅弘(1908年2月29日 - 1993年10月29日)は、京都府京都市生まれ。

父は「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三。父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、日本映画の黄金時代を築いた。

幼少のころは父が撮影所長を務めていた日活で子役として働いていた。小学校の同級生に後のカメラマン宮川一夫がいた。「映画に専念しろ」という父に反発して京都市立第一商業学校に進学。
しばらくはラグビー選手として活躍した。のちの映画監督の久保為義、山中貞雄らがいた。

17歳のとき、赤痢にかかり、病床に伏したことを機に高校を退学、父が所長を務める東亜キネマ等持院撮影所で、今度は助監督として駆り出されるようになる。
やがて父の興したマキノ・プロダクションで、18歳のとき、富沢進郎の共同監督として『青い眼の人形』で監督デビューを果たす。

山上伊太郎の脚本による『浪人街 第一話 美しき獲物』は1928年(昭和3年)のキネマ旬報ベストテン第1位に輝き、『崇禅寺馬場』が4位、『蹴合鶏』が7位を勝ち取った。
翌1929年(昭和4年)には『首の座』で2年連続第1位、『浪人街 第三話 憑かれた人々』も3位に入選した。ところが、正博の監督した作品は評論家や左翼青年からは高い評価を得たものの興行的には失敗であった。
1929年(昭和4年)、父の陣頭指揮のもと、トーキーの研究にとりくみ、マキノ・プロダクション第1回トーキー作品として、日本初のディスク式トーキーによる監督作『戻橋』を発表する。
そのわずか20日後、父・省三は、37万円という今の金額に換算すると数億円とも言われる、巨額の負債を負ったまま死去する。

正博はマキノグループが抱える37万円の借金を返済すべく、自らが陣頭指揮を執って娯楽作品を次々と世に送るが、かえって経営は危機に瀕して、数度のストライキや撮影所全焼という不幸が重なり、
ついにマキノプロを引き払って、1932年(昭和7年)にひとまずは日活に入社。しかし、ここでも不況下の首切りによるストライキが起こって撮影が一向に進まず、正博も間もなく会社から解雇される。

退社後は東京映音に入社し、録音技術すなわちトーキーの研究をし、東日大毎ニュース映画、大日本ビールのコマーシャル映画など記録映画の製作に携わり、みずからトーキー録音機を考案、日活で『さくら音頭』を試作。さらには永田雅一の第一映画社に招かれて、トーキー映画の録音と現像を指導、この頃の伊藤大輔、溝口健二の監督したトーキーは「録音技師・マキノ正博」の手によるものだった。

1935年(昭和10年)に嵐寛寿郎プロダクションで『春霞八百八町』などで再びメガホンをとり、それまでのトーキー映画での成果を引っさげ、同年、安価で良質なトーキー映画を製作するためにマキノトーキー製作所を設立した。マキノトーキーの全作品は、正博自身がプロデューサーと録音技師を務めている。

1937年(昭和12年)にマキノ・トーキーは資金難により解散し、正博ももう2度とプロダクションは持つものかと心に決め、一介の雇われ監督として日活に招かれる。
しかしこの間、日活に所属していたスターの阪東妻三郎(『恋山彦』『血煙高田の馬場』)、片岡千恵蔵(『江戸の荒鷲』)、月形龍之介(『妖棋伝』)らの主演作を休む暇もなくスピーディに撮りつづけ、いずれもヒット作となった。

1939年(昭和14年)には和製オペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』を監督、公開当時はあまり大きな反響がなかったが、後年、再評価が高まり、現在では『血煙高田馬場』に並んで正博の戦前の代表作となっている。1本の作品を約10日程度で撮り上げてしまう正博であったが、この『鴛鴦道中』はなんと撮影期間28時間という超人的な離れ業もやってのけた。

負債は完済し、女優の轟夕起子と結婚した(1940年結婚 - 1950年離婚)。この頃までに正博は「早撮りの名人」の異名をとるが、それは以前から「早撮監督」として知られていた渡辺邦男もうなるほどの技量だった。

正博は人形浄瑠璃を学び、女優に対する演技指導では自ら演技をしてみせた。1940年頃には、当時まだ10代だった藤間紫が踊る日本舞踊に感銘を受け、以後はもっぱら日本舞踊を研究し、その所作を女優の演技指導に活用するようになる。松竹太秦撮影所長に就任する。

第二次世界大戦後はヒロポン中毒に苦しんだこともあったが、黒澤明脚本による『殺陣師段平』、村上元三原作の「次郎長三国志」シリーズ(東宝で9部作、東映で4部作)、
東映では仁侠映画の走りとなった『日本侠客伝』シリーズなど数々の傑作を生み出し、高倉健らを銀幕の大スタアの座に押し上げるのに一役買った。
藤純子を自宅に住まわせ、女優のイロハを一から叩き込み、彼女を東映随一の女優に育てあげたり、日活では「梶芽衣子」の名付け親にもなっている。

1960年(昭和35年)には、生放送のテレビドラマ『秋葉の宿』でテレビにも進出。1965年(昭和40年)の『竜馬がゆく』などを手掛けたほか、
1968年(昭和43年)には父・省三の生涯を描いた『カツドウ屋一代』を映像化した。
1972年(昭和47年)に監督した東映オールスター映画『純子引退記念映画 関東緋桜一家』が最後の劇場作品となった。同作は興行的には大成功だったが、批評家からはあまり高く評価されず、これが映画監督引退を決断するきっかけの一つとなった。

1993年(平成5年)10月29日、死去した。85歳没。サッカーファンで、臨終の床でもいわゆる「ドーハの悲劇」の試合をテレビで観戦しており、試合途中で日本代表の勝利を確信して死去したという。




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