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いのちぼうにふろう
東宝/121分★★
1971年(昭46)9月11日公開<モノクロ・ワイド>
脚本 隆巴 監督 小林正樹
撮影 岡崎宏三 音楽 武満徹
原作-山本周五郎
出演-仲代達矢・佐藤慶・中村翫右衛門・栗原小巻・勝新太郎・山本圭・酒井和歌子・岸田森・中谷一郎・神山繁・草野大悟
あらすじ(MovieWalker)
東宝と俳優座の提携作品。原作は山本周五郎の「深川安楽亭」。第45回キネマ旬報ベスト・テン第5位。

この年の2年前、1969年に黒澤明、木下恵介、市川崑らと「四騎の会」を結成した小林正樹が監督。脚本の隆巴は、主演の仲代達矢の夫人、宮崎恭子。

映画史に残る作品だが、個人的には今ひとつだった。
時の権力者からも一目置かれた、ならず者達の根城である安楽亭。ご禁制品を保管運搬して生計を立てている男たちが、転がり込んできた山本圭に同情して危ない橋を渡って金を用意させてやろう、命棒に振ったっていいじゃないか、と考える感情の推移が理解できない。今から50年前、1970年代だったら、観客たちはこのならず者たちの考え方に賛同して拍手喝采したのだろうか?根本のテーマに乗れないので最後まで違和感があった。

勝新は名無しの飲んだくれ男として登場。いつものイメージとは程遠い役柄で、山本に自分の過去を歩きながら話すシーンは良かった。ラストで一味の応援に駆け付けるのではと期待したが、出番はなし。逆にそれも良かったのかもしれない。

ラストの立ち回りは御用提灯やら白縄などを効果的に使い面白い。しかしこの様式美的な美意識は、前半部分の舞台的演出とは異なり、取って付けたような印象。映画としては散漫となった。

中村翫右衛門は前進座創立者の一人。戦前の山中貞雄監督作品「河内山宗俊」「人情紙風船」などに主演しているベテラン。今回久し振りに映画作品の中で観ることとなって、感慨深かった。

栗原小巻は1963年に俳優座養成所の第15期生として入所。山本圭は1960年俳優座養成所第12期生。岸田森、草野大悟は文学座附属演劇研究所出身の同期生。
仲代は1952年昭和27年に俳優座養成所の第4期生として入所。同期は佐藤慶・中谷一郎らで、今回の映画にも総出演している。


以下Wikiの仲代達矢より転載
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1932年東京市目黒区五本木生まれ。父親は茨城県の農家出身で京成電鉄のバス運転手、母親は五反田小町と呼ばれた薬局の看板娘であった。
父の転勤により千葉県津田沼に移るが、小学校2年生の時に父親が死去し、東京都世田谷区瀬田に移り、用賀の小学校に転校。
やがて一家で青山の弁護士事務所の留守番をすることになったため、青山の青南小学校に転校するも、
一家は極貧状態で弁当のおかずもなく、母親は教師から「ここはあなた方のような貧乏人が来る学校ではない」とののしられたという。戦時中は母を青山に残したまま調布市仙川の寺に疎開。

1945年4月、小学校を卒業して青山に引き揚げると、母が住み込み先の弁護士の妾となり、弟を産んでいた。
その後、東京都立重機工業学校を卒業、敗戦を迎える。
学制改革ののち、親戚や弟と共にポン菓子屋、中華そば製麺所を起こし、中学校の用務員なども務めながら東京都立千歳高等学校定時制卒業。
高校卒業後、定職に就けず、大井競馬場で鑑札を持たない違法な予想屋を取り締まる警備員をしたり、
ボクシングの三回戦ボーイの職にありつくなどしながら、映画館・芝居見物に通う。
そんな日々の中、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年(昭和27年)、俳優座養成所に第4期生として入所。同期生には佐藤慶・佐藤允・中谷一郎・宇津井健らがいた。

なお、このうち佐藤允、仲代、中谷の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連として喜八一家と呼ばれるようになり、佐藤慶も2本の岡本作品に出演している。同期生の中で新東宝に入社した宇津井とのみ仕事上やや疎遠になったが、宇津井とは性格が違ったものの仲が良く、映画『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。
仲代はバーで働きながら役者修行に励んだが、この頃、俳優座へ通うための電車賃を節約するために徒歩で移動し、毎日同じ服を着て、人とはあまり話さず、目だけが異様な光を帯びていたという。

養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー。養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演で、本来は出演作にカウントすべきものではないが、この出演で時代劇の歩き方ができなかった
仲代は監督・黒澤明をいら立たせ、「俳優座では歩き方も教えないのか」と罵られ、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい、最終的に「いいや。OK」となった。黒澤はこのことをすぐ忘れたらしいが、仲代にとって強烈な思い出となり、これが映画俳優・仲代のスタートとしてしばしば引き合いに出されることとなった。

1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。芸名の「達矢」は射手座生まれにちなんで「的に達する矢のごとく」と異母姉が命名した。
同年秋の公演『幽霊』で抜擢された。この『幽霊』を見た女優・月丘夢路の推薦で、月丘の夫である映画監督・井上梅次から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年、日活)で月丘の相手役という大役をつとめ、映画でも本格デビューを果たす。翌年には映画『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・通称人斬りジョーの演技でも存在感を示す。

1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家、脚本家に転身)宮崎恭子と結婚。
映画会社大手5社全てからさまざまな好条件を提示され、専属俳優にと望まれたが、舞台へのこだわり等から、結局どの会社とも専属契約を締結せずフリーランスの道を歩み続けた。
この背景もあって、原則として「1年の半分は演劇」と定めることができ、五社協定に縛られることなく映画出演の機会に恵まれた。
1959年(昭和34年)から1961年まで六部で総上映時間が約10時間の『人間の條件』で主人公・梶に起用される。撮影が1年半に及んだこの作品で、仲代は監督の小林正樹も感服する演技を見せた。同年には犯罪者に扮した『野獣死すべし』も公開。

東宝では三船敏郎に対抗できる敵役俳優として、『用心棒』(1961年)の監督・黒澤明から出演依頼を受ける。『七人の侍』出演時に黒澤から散々NGを出された記憶もあって「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めていた仲代は当初出演をきっぱりと固辞したが(「いやあ、気持ちよかったな」とは本人の弁)、黒澤本人に呼び出されて説得されたため出演することにし、洒落者だが残忍なヤクザを演じる。
翌年の『椿三十郎』でも続けて起用され、今度は再び悪役ながらも剛直な武士を演じ、仲代の風格と演技力を買った黒澤の期待に応えた。
1963年(昭和38年)には『天国と地獄』で誘拐事件の捜査を指揮する警部役を演じ、犯人との相似すら感じさせる異常な執念に個性を発揮した。

他映画では『鍵』(1959年)、『娘・妻・母』(1960年)、『女が階段を上る時』(1960年)、『切腹』(1962年)、
『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)、『憂愁平野』(1963年)、『四谷怪談』(1965年)、
『大菩薩峠』(1966年)、『殺人狂時代』(1967年)などに出演。1968年(昭和43年)にはイタリア映画『野獣暁に死す』に出演、アジア系ではなくメキシコ・インディアンの血を引くという設定のアメリカ人の悪役であった。
1960年代には斜陽期となった映画界を支える新進の代表格とみなされるようになり、先述通り舞台俳優としても引き続き活躍、俳優座の看板俳優として演劇界にも地位を確立する。

1970年代には山崎豊子原作・山本薩夫監督の政財界もの映画『華麗なる一族』(1974年)で準主役を一人二役で、同じ原作・監督による『不毛地帯』(1976年)では主役を務める。特に『不毛地帯』での壱岐正 役での演技は適役として高く評価された。その2作の間の同じ山本監督作品『金環蝕』(1975年)にも主演起用され、冷酷な官房長官を演じている。

1980年(昭和55年)の『影武者』で、監督・黒澤明との確執で降板した勝新太郎の代役として、急遽主役に抜擢され、同作はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。
同年には『二百三高地』にも主演、人情味をたたえた乃木希典を演じている。1982年(昭和57年)には『鬼龍院花子の生涯』で、傲岸で気性の激しい土佐の鬼政こと鬼龍院政五郎を演じ、全くタイプの異なる役柄を演じ分けた。
1985年(昭和60年)の黒澤作品『乱』でも主演し、「戦国版リア王」として悲劇への道をたどる秀虎役を演じた。翌年の『熱海殺人事件』では一転して狂騒的なドタバタ喜劇に出演、それでもなお重厚さのにじみ出る演技を見せた。同作の原作と脚本・つかこうへいは、主役・木村伝兵衛の名を「仲代の名を支えきれない」と二階堂伝兵衛に変えてしまった。

妻・宮崎恭子とは1955年(昭和30年)に舞台『森は生きている』の共演が縁で1957年(昭和32年)に結婚。
その後、家庭と無名塾の公私両面を二人三脚で乗り切る。宮崎が1962年(昭和37年)に死産してから夫婦に子がなかったため、宮崎の妹宮崎総子(アナウンサー)の娘・奈緒を養女に迎えている。奈緒は仲代奈緒の名で歌手になった。1996年(平成8年)宮崎を癌で失う。

温厚な性格で知られるが、若き日には共演者の三船敏郎や萬屋錦之介と酒を飲んで、演技論を戦わせた末にケンカした、という血気盛んな逸話を自ら語っている。丹波哲郎は「ケンカが強いのは仲代」と述べていた。
映画『黒い河』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯』など傲岸な役も多かったが、素顔は前述通り温厚。数々の女優達とも共演してきたが、『さんまのまんま』では「女優さんって、みんなどうしてあんなに強いんだろうねぇ……」と語っている。

勝プロ製作の映画にも出演しており、その際、勝新太郎からは「毎晩ご馳走になった」そうで、仲代は勝を「派手で面白い人物」と語る。
しかし『影武者』の一件以来、疎遠になったのも事実であり、勝が亡くなる1997年までの間、2人が顔を合わせたのは1996年、仲代の妻・恭子の葬儀のみであった。

勝の『影武者』降板理由について仲代は「真相はわからない」としているが、映画評論家たちの「勝の方が良かったろうな」という声に対しては「勝さんが演じた『影武者』を見た訳じゃないだろう?」と俳優としてのプライドを覗かせた。
その一方で「長谷川等伯が描いた武田信玄の肖像画は私のイメージじゃない」と外見に関しては勝に分があったことを認める発言もしている。




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