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かげろう絵図
大映/84分/★★
1959年(昭34)9月27日公開<カラー・ワイド>
脚本 衣笠貞之助・犬塚稔 監督 衣笠貞之助
撮影 渡辺公夫 音楽 斉藤一郎
原作-松本清張
出演-山本富士子・市川雷蔵・滝沢修・木暮実千代・黒川弥太郎・柳永二郎・志村喬・阿井美千子・河津清三郎
あらすじ(MoveWalker)

東京新聞に連載中の松本清張の同名小説を映画化したもので、徳川十三代将軍跡目相続をめぐる陰謀事件を中心にした時代推理劇。

主演は山本富士子でキャストタイトルの最後、監督タイトルの前に雷蔵が一枚看板で表示される。

雨降りバックで重々しい音楽のタイトルが終わると、雨上がりの城内の情景が映し出される。この空気感が素晴らしい。豪雨の跡の瑞々しさを大映の美術スタッフは見事な仕事をしている。

衣笠貞之助監督の映画をちゃんと見るのはこれが初めて。移動やパンを使わず、多分全カットをフィックスで捉えるその映像は、格調高く他の大映時代劇には無い気品の高さが感じられる。

また劇団民藝の滝沢修が圧倒的に存在感で迫ってくる。潔くスキンヘッドにしたその演技力は素晴らしい。
この時山本富士子は28歳で二役を演じて芸達者ぶりが伺える。雷蔵の出番は中盤あたりから。

しかし、さあこれからという所でエンドマークとなってしまう。製作当初は前編後編での予定だったのだろうが、何故か後編は製作されず。何か消化不良が残る作品ではある。


以下、山本富士子のWikiより

1931年(昭和6年)、大阪市西区生まれ
1950年(昭和25年)、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。
1951年にミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。

ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。
同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。
1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。
山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。
永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。
彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている

なお、五社協定から49年が経過した2012年の今も映画界には復帰していない。ただ、テレビ番組『映像美の巨匠 市川崑』(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑から映画『細雪』への出演依頼があったが断っている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演しなかったことを後悔したと語っている。

1962年、ギタリスト・作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。





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