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無宿(やどなし)
東宝配給/97分★★
1974年(昭49)10月9日公開<カラー・ワイド>
脚本 中島丈博
蘇我道夫
監督 斎藤耕一
撮影 坂本典隆 音楽 青山八郎
出演-勝新太郎・高倉健・梶芽衣子・藤間紫・山城新伍・今井健二・石橋蓮司・荒木道子・大滝秀治・中谷一郎・神津善行
あらすじ(MovieWalker)
勝新と高倉健の最初で最後の共演映画。

監督の斎藤耕一は前年の1973年に「津軽じょんから節」でキネマ旬報ベストワンを獲得、実力監督の仲間入りをはたしていた。脚本も同作の中島丈博が、撮影も同じ坂本典隆が担当している。

当時高倉健は43歳で勝新と同じ歳。クレジットは勝新がトップで高倉は止めなので、主演は勝新になるが映画の内容的にも高倉が主役だろう。
高倉はこの年の8月「山口組三代目襲名」が公開、この作品の後、12月公開で「ザ・ヤクザ」にも立て続けに主演映画か公開され、絶頂の時期だったろう。

梶芽衣子はこの時27歳。1972年から「女囚さそり」シリーズに主演、前年の12月には「修羅雪姫」にも主演していて、こちらも絶好調の時期。人気者二人のスケジュールを押さえて勝新も大はしゃぎの日々ではなかったろうか。

しかし、内容的にはイマイチの出来。日本版「冒険者たち」か「突然炎のごとく」を目指したか、男二人と女一人の冒険譚は大して面白くない。ラスト、勝新と高倉が相次いで死んでいっても、何の感慨も産まれない。

改めて映画はまずは脚本の出来が全て、の初心に立ち戻る。いくら人気俳優が退去して出ても、スタッフが有能でも、根幹をなす物語がしっかり構築できていないと面白くはならない。

この作品が、1967年に設立された勝プロダクションの最後の単独劇場用映画作品となった。この後は主にテレビドラマが中心となっていく。


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以下Wikiより転載

梶芽衣子(旧芸名・本名:太田雅子)1947年東京都千代田区神田出身。

八雲高校在学中より高橋圭三の事務所に所属し、1965年、高校卒業と同時に日活に入社。同年に映画『悲しき別れの歌』で本名の太田雅子でデビューし、石原裕次郎・小林旭・松原智恵子・吉永小百合らが主演する映画で助演していた。

子役からのアイドルスターであった太田博之とコンビを組み、W太田として青春スターとして売り出され、1965年の映画『青春前期 青い果実』で主演を果たす。この頃は慣れないアフレコに四苦八苦しており、そんな梶をある大物女優があざ笑い、怒った梶はその女優に啖呵を切ったという。その噂は撮影所に瞬く間に広がって武勇伝となり、会社の重役からは絞られたものの、その事が切っ掛けでアフレコを一生懸命に練習し、上達した。
1969年に出演した映画『日本残侠伝』で監督・マキノ雅弘に芸名を梶 芽衣子と改名される。改名は成功し、以降不遇時代から抜け出す。

1970年の日活映画『野良猫ロックシリーズ』4作に主演し人気を得る。『大江戸捜査網』(東京12チャンネル)などのテレビドラマに日活女優として出演をする。
1971年、日活がロマンポルノに移行したため退社しフリーとなる。
1972年3月『純子引退記念映画 関東緋桜一家』を最後に引退した藤純子の後釜として東映に誘われ同年東映に入社した。『銀蝶シリーズ』の後、『女囚さそりシリーズ』で人気を決定付けた。
本作で"ヒロインが台詞を喋らない方が凄みを増す"というアイデアは梶が出した。1973年、『女囚さそりシリーズ』の三作目に出演するかしないかで揉めているとき、深作欣二監督に請われて出演した『仁義なき戦い 広島死闘篇』でもヒロインを好演した。
『女囚さそり』のシリーズ化で揉めて東映とケンカ別れの形となり、同年退社し再びフリーとなる。その後東宝の『修羅雪姫シリーズ』など、各社で主演映画が製作されていく。
これらの作品は海外でも人気を呼び、クエンティン・タランティーノは梶の熱狂的ファンと公言。タランティーノは映画『キル・ビル』で『修羅雪姫』のオマージュをし、梶の歌「修羅の花」と「怨み節」を流している。

東映の『女囚701号/さそり』を撮影していた当時、大手レコード会社のディレクターとの縁談が進んでおり、同作を最後に芸能界を引退して専業主婦となる決意を固めていた。映画が予想以上の大ヒットとなったため続編が企画されるが、梶は結婚を理由に出演を断る。しかし岡田茂の説得により「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じたところ、その後も俊藤浩滋ら多くの関係者の説得を受ける形で続編の制作が続けられ、縁談は最終的に破談になってしまった。

一方でイメージ打破のためノーギャラで出演した『大地の子守歌』では、ほのかな優しさを主人公に向ける農婦の役を演じた。
1978年には宇崎竜童と組んで2人の主演映画をやりたいという自身のブランのもと製作された『曽根崎心中』では、強い女の情念を演じて新境地を開拓し、国内の主要映画賞を複数受賞した。
同作品で楽曲提供で付き合いのあった宇崎竜童を俳優業に引き入れ、宇崎はこれを切っ掛けに異分野の交友を急増させた。
1982年東映で映画化された『鬼龍院花子の生涯』は、元は梶が東映に企画を持ち込んだもの。

テレビドラマでは大映ドラマに多く出演したほか、『鬼平犯科帳シリーズ』での密偵・おまさ役で長年出演した。

歌手としても前述の楽曲を歌い、これらは2000年代以降にCDで次々と復刻発売されている。
2009年6月24日には25年ぶりの新曲『女をやめたい』をリリースし、2011年5月25日には31年ぶりのオリジナル・アルバム『あいつの好きそなブルース』をリリースした。

1970年代にプログラムピクチャーを量産する東映とはケンカ別れの形となったが、今は岡田茂東映社長から言われた「傑作や名作はオレたちが作るんじゃない。お客さんが作るんだ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」という言葉を肝に銘じて、生涯娯楽作品に挑みたいと話している。

実家は神田の老舗寿司屋と伝えられてきたが、本人によるとこれは事実ではないという。父親は調理師だったが、日活への入社時にその事を宣伝部に伝えると「調理師じゃ面白くない。神田の出身だから、寿司屋でいこう。」となり、以降そのような略歴が記載された。



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