濡れ髪三度笠 大映/98分/★★★ 1959年(昭34)8月1日公開<カラー・ワイド> |
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脚本 | 八尋不二 | 監督 | 田中徳三 | |||
撮影 | 武田仙吉郎 | 音楽 | 飯田三郎 | |||
出演-市川雷蔵・本郷功次郎・淡島恵子・中村玉緒・楠トシエ・中田ダイマルラケット・和田弘とマヒナスターズ |
濡れ髪シリーズの第二弾。 1958年11月に公開された第一弾「濡れ髪剣法」は雷蔵自身がお殿様だったが、今回のお殿様は本郷功次郎でこの時21歳。絵に描いたような美剣士姿。相手役の中村玉緒は20歳。雷蔵に惚れる淡路恵子は26歳。ちなみに田中徳三監督は39歳だった。 その年のお盆映画らしく、賑やかしで中田ダイマルラケットや和田弘とマヒナスターズが出て華を添えている。 ラスト近くの河原での殺陣シーンはコマを落として、多分20コマくらいで早回ししているのが少し不自然に見えた。 また大ラスの、お殿様は結局城中から逃げ出し、雷蔵らと合流する筋終わりは、ちょっと納得できない。溜飲が下がらなかった。その前の別れのシーンが良いシーンだったので、あそこで今生の別れのほうか話が締まったのではと思える。 以下本郷功次郎のWikiを引用する。 岡山県岡山市に金物屋の次男として生まれる。大学では柔道部に所属。 叔母が黒帯を締めた本郷の写真をいつも持ち歩いていて、たまたま叔父の友人だった大映の重役・松山英夫の目に留まる。大映では藤田進や菅原謙二に続く柔道スターを探していたため、松山がその写真を叔母から借りて、社長の永田雅一に見せたところ「すぐに連れてこい」となった。 本郷は冗談めかしてその時のことを「拉致された」と笑っている。大映本社で松山と監督・市川崑に面接されたが、俳優になるつもりもなかったので、「日本映画はつまらないから観ません」とはっきり断ったが「どうしてもやってくれ」と説得され、最終的に「柔道映画なら仕方がない」と引き受けたという。 大映演技研究所に入所し、第12期大映ニューフェイスとして1958年に入社、『講道館に陽は上る』(1959年)で菅原謙二に次ぐ準主役として映画デビュー。 『講道館に陽は上る』で行われた若草山での撮影では、立ち回りのシーンのために地面にマットが何枚も敷かれた。これを見て「それ、何に使うんですか」と尋ね、「ここに投げられるんだ」と言われたので「下は土だからそんなものいらない」と答えた。 これを聞いた監督の田坂勝彦が狂喜して、菅原から連続7本投げ続けられる場面をワンカットで撮影。それまでの柔道映画はすべて吹き替えで、俳優が実際に投げられる例は無かった。これを見た永田も大喜びし、「この男をスターにしろ!」と号令をかけた。 こういったいきさつで一躍スターとして売り出されることになったが、本郷自身は「スターになってくれと言われてなったが、自分自身では努力も何もしていない、自分では俳優への憧れどころか別になりたくも何ともなかったんです」と語っている。 永田の声がかりに加え、当時の大映は若手男性スターが不足していたこともあり、その後立て続けに映画出演をこなし、時代劇も現代劇もこなせる若手スターとして売り出される。 文芸映画志向が強く、会社から『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(1966年)への主演を通達された際には、雲隠れして何日もホテルに泊り込んでいた。「他の俳優は蜘蛛の子を散らすように逃げた」そうで、「私だけが捕まってしまった」と笑っている。 |
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