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釈迦
大映/196分★★
1961年(昭36)11月1日公開<カラー・70ミリワイド>
脚本 八尋不二 監督 三隅研次
撮影 今井ひろし 音楽 伊福部昭
出演-本郷功次郎・勝新太郎・市川雷蔵・山本富士子・中村玉緒・川口浩・叶順子・山田五十鈴・京マチ子・根上淳・小林勝彦
あらすじ(MovieWalker)

大映初の70ミリ映画。熱狂的な仏教徒であった永田社長の鶴の一声で製作された仏教史劇。

日本人が演じて日本語を喋って、でも舞台はインドという強引な設定にまず白ける。
お話は三部構成となっており、みんな最後はお釈迦様の教えに改心して心を入れ替えるというご都合主義満載の凡庸大作。だだ特撮としては、作画合成の世界に見るべきものがある。

役者では勝新の悪役芝居が際立つ。やはりアクの濃い芝居は唸らせるし、板についている。


以下Wikiより転載

仏教の開祖・釈迦の生涯を、当時の大映のスターを集めて映画化した作品。総製作費は当時の金額で5億円とも言われる。公称は7億円である。
本作の制作当時、ハリウッド映画界では、前年の『ベン・ハー』、同年公開の『スパルタカス』と70mmフィルムによる超大作史劇映画が製作され、話題をさらっていた。また前年1960年は日本でもテレビのカラー放送が開始され、テレビ受信契約数も300万台を突破しており、本格的なテレビ時代の到来を前に、日本の映画製作会社は各社こぞって大作主義と二本立て興行に活路を求め始めていた。こうした中で大映は総天然色化を松竹に、シネマスコープ化を東映に先取られていて、他社に先駆ける70mm映画の制作は大映にとって悲願であった。

熱心な日蓮宗徒として知られた大映社長の永田雅一は、『日蓮と蒙古大襲来』(1958年、渡辺邦男監督)に続く仏教題材の史劇スペクタクルとして、のちに『大魔神』(1966年、安田公義監督)を企画する奥田久司が提出していた『釈迦伝・光は東方より』という企画案に着目。これを基にして、「釈迦」の生涯を70mm大画面の映画として描きだすべく、本作の製作を陣頭に立って号令したのである。

こうして1960年9月に製作が正式決定した本作は、「70mmスーパーテクニラマ」と銘打って公開された、邦画大作主義の象徴ともいえる日本初の70mmフィルム映画となった。撮影カメラは米パラマウント社から購入したビスタビジョン・カメラを、本作のためにロンドン・テクニカラー社に依頼して「アナモフィック・レンズ」を装着可能に改造し、「スーパーテクニラマ方式」のカメラとしたものが使われた。
なお、「スーパーテクニラマ」方式は、「70mm」と銘打ってはいるものの、撮影自体は35mmビスタビジョンのカメラを用い、上映用プリントを作成する際に70mmフィルムに焼き付ける方式であるため、トッドAOやスーパー・パナビジョン、あるいはウルトラ・パナビジョン(MGMカメラ65)といった、65mmネガを用いて撮影する方式とは区別する必要がある。ただし、ビスタビジョンは35mmスタンダードの2コマ分を1コマに用いる高品質のフォーマットであるため、スーパー・テクニラマも他の70mmフォーマット同様大判ネガならではの高画質を誇る方式であることに違いはない。

撮影開始日は永田の意志によって、翌年の1961年、釈迦の生誕日である4月8日に決定、クランク・インした。永田は大映京都撮影所に全資力を注ぎ込み、京都府福知山市に広大なオープンセットを建設。自社スターはもちろんのこと、歌舞伎界、新劇界など幅広い分野から俳優を呼びよせるオールスター・キャストでこれに臨んだ。
70mm大画面で描かれるスペクタクル映像には特撮の比重も多く、本作ではシッダルダ太子生誕のほか、太子が弓矢を跳ね返すなどの奇跡場面がアニメーションと作画合成で表現されており、その数は37カットに及んでいる。このアニメーションと作画合成を手掛けたのは、前年1960年に動画会社ピー・プロダクションを発足させた、うしおそうじ(鷺巣富雄)と渡辺善夫だった。京都の撮影所はアニメーションを全く信用していなかったため、釈迦の奇跡で花が一斉に咲くシーンは、当初モーターを仕込んだ造花を用意して、機械仕掛けでこれを撮る予定だったという。しかしこれがうまくいかず、動画が導入された。

精巧な作画を実景に合成する「作画合成」は、渡辺が担当した。この「作画合成」は一度撮影したフィルムを現像すること無く、そのまま合成開始の位置までフィルムマガジン内で巻き戻し、作画した絵を写し込んで合成する、「生合成」という手法で撮られた。カットの始めと終わりをきっかけを見ながらストップ・ウォッチで計り、合成開始箇所までフィルムを巻き戻すというこの作業は、完全に勘と熟練した渡辺の職人技で行われるものであり、もし失敗すれば70mm用の膨大なセットをまた別の日に組み直さなければならず、念のために数テイクが撮られたとはいうものの、その責任の重圧は尋常ではなく、渡辺ともども東京から京都に出向して撮影に当たったうしおは、その重圧から幾晩も眠れなかったといい、「途中で東京に帰ろうかと思った」という

当時、70mmフィルムの現像所は日本には無く、特許の関係もあって撮影フィルムはイギリスまで空輸され、ロンドン・テクニカラー社のラボラトリーで1週間ほどかけて現像され、再び日本に空輸された。永田は万が一を考え、このプリント空輸に際して、制作費と同額の保険をかけている。また、70mmフィルムの映写機は大阪の「OS劇場」にしか無かったため、スタッフは終演後のOS劇場まで京都からロケバスに乗って出向いて試写をしなければならなかった。したがって、ひとつのNGが莫大な損害を生むために、撮影スタッフの苦労は並大抵ではなかった。うしおは晩年まで、「この時のロケバスの中でのハラハラドキドキした祈るような気持ちは今でも夢に出る」と語っている。無事本作が完成し、試写が行われた際には、うしおは同席した師匠である東宝の円谷英二特撮監督から「よくぞ動画と実写特撮を融合してくれた」として絶賛を受けたという

劇中音楽を担当したのは伊福部昭。録音は京都で行われ、テープはイギリスに空輸され、「ロンドンRCA」でミキシングされた。伊福部によると、濡れ場のシーンを静かな曲調で作曲したが、イギリスから帰って来たフィルムでは大音量になっていた。これについて伊福部は「アングロサクソンってなんて下品なんだろうと思いました」と苦笑している。

仏陀の行を妨げようとする「マーラ」達は、京都の造形家大橋史典によるもの。無数に登場する醜怪なマーラの一部は、同じ大映京都で大橋が手がけた『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』、『赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人』(1958年)の「鳥人」や「雷人」の被り物を改造したものが使われている。
造形で参加した高山良策は、本作品をきっかけに以後『大魔神』など大映の特撮作品へ多く参加してい。
特撮班では、京都撮影所の横田達之が手に余るとして、東京撮影所の的場徹を京都へ招いている。絵コンテは的場が描き、黒田義之が助手に就いて、特撮シーンの撮影はすべて的場が行っている。タイトルには特撮スタッフとして横田と相坂操一の名がクレジットされているが、実際には両者はノータッチだったという。 福知山のオープン・セットでの撮影では、宮川一夫が一部担当していて、的場は「あれが『釈迦』で一番いいカットじゃないかな」と語っている。

美術監督には、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』(1956年、イヴ・シャンピ監督)や、『黒船』(1959年、ジョン・ヒューストン監督)を手掛けた伊藤熹朔が就き、本編と特撮の融合に最大限の注意を払って美術設定が行われた。劇中の広大なオープン・セットは、京都府福知山の自衛隊演習場の敷地内の山を切り崩し、当時で7000万円かけて組まれ、その規模は2万uに及ぶ邦画史上空前のものだった。セット内には28mのインドラ神像を中心に、その正面に幅10mの道路が造られ、両側に5棟の神殿、60mの大橋が40日間かけて建てられた。神殿工事の人夫のエキストラは1万5千人が動員された。
クライマックスの天変地異のシーンは撮り直しがきかない規模であるため、三隅が携帯マイクで号令をかけ、5台のカメラを一斉に回してこれを撮影している。

かくて完成した本作は欧米のバイヤーからも好評を得、公開前から海外興行の話がまとまり、大映に70万ドル(当時)の莫大な外貨をもたらした。一方、後にに述べる理由で、上映国の中には映画にクレームが集まる結果となっている。
しかしこれは「日本初の70mm超大作映画」としての興行の前に却って宣伝効果を生む結果となった。いざ本作が公開されるや、11月からのロードショー公開で日本の興行記録を塗り替える大ヒット。さらに翌年にまたがるロードショーと一般公開によって、最終的に7億円を超える配給収入を得る超特大ヒットとなり、当該年度の各映画部門の賞を総なめにしている。
当初本作は、大々的な海外ロケを敢行する予定であった。しかし、企画段階でインド、セイロン(スリランカ)、ビルマ(ミャンマー)、タイ、パキスタン、ラオスの6仏教国から「仏陀を汚し、仏教徒を侮辱している」との猛抗議を受け、不穏当な部分のカットを要求され、海外ロケは中止となった。




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