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座頭市血煙り街道
大映/86分★★★★
1967年(昭42)12月30日公開<カラー・ワイド>
脚本 笠原良三 監督 三隅研次
撮影 牧浦地志 音楽 伊福部昭
出演-勝新太郎・近衛十四郎・高田美和・坪内ミキ子・伊藤孝雄・小池朝雄・松村達雄・小沢栄太郎・朝丘雪路・中尾ミエ・なべおさみ
あらすじ(MovieWalker)
「座頭市」シリーズ第17作。併映は雷蔵主演の「若親分千両肌」

ここ近年の「座頭市」では格段の面白さ。流石に第一作「座頭市物語」を監督した三隅研次ならでは。

トップシーンの公儀の隠密役である近衛十四郎との出会い。そしてラストでの別れ。笠原良三の筋の通った構成が素晴らしい。近衛は戦前の剣戟映画の大スター。松方弘樹や目黒祐樹の父親でもある。

中尾ミエやなべおさみなどの賑やかし役や、小池朝雄・松村達雄・小沢栄太郎などの脇役の味わ深い。

勝新の居合抜きが又気持ち良い。剣が常に光るように照明を当てているのかもしれない。立ち回りがまるでバレエを踊るように、鮮やかさ、華麗さがある。

ラストの対決。最後には自ら斬られることを辞さない市。その立ち姿にほだされる近衛。しなやかに舞い落ちる雪と共に記憶される、名シーンとなった。

第一級の娯楽映画としての仕上がりを見て、併映に主演した市川雷蔵はさぞ悔しがったに違いない。
ちなみにタイトルバックには勝新の唄う主題歌が流れる。


以下、Wikiの近衛十四郎より転載
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1914年、新潟県長岡市生まれ。

工業学校卒業後、鉄道建設事務所に勤めていたが、映画俳優を目指し、市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する。最初の芸名は長岡 秀樹だった。

1934年、長岡が20歳のとき、右太衛門プロから独立し枚方市に映画製作会社「亜細亜映画」を設立したばかりだった映画監督白井戦太郎に見出され、白井の勧めで近衛 十四郎と改名。4月には亜細亜映画第1回作品『叫ぶ荒神山』に主演。吉良の仁吉役でデビューを飾り、続けて翌月には『曲斬り街道旅』でも主演を務める。その後、さらに近衛の主演作を1本撮るが興業的に不振に終わり、9月に発生した室戸台風で撮影所が倒壊、資金難から再建不能に陥り、結局、この年限りで倒産する

1935年、21歳で白井戦太カとともに大都映画社に移って主演。剣戟の看板スターとしての名声を獲得する。

1941年、第二次世界大戦が勃発、この年に女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚。
1942年、戦時映画社統合によって大都映画社は日活、新興キネマとともに合併され大日本映画製作株式会社(大映)となる。
大映は既に剣戟四大スター(阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門)を抱えており、これに加え、フィルム統制により製作本数が激減したことにより多くの俳優が仕事を失うという状況下、近衛は妻・やゑと大都映画の退職金2人分を投じ、一座を結成して国内各地を実演興行して回った。座員は大都映画から引き連れた俳優に浅草の軽演劇から名うての役者を数名引き抜き、多い時には総勢50名近い大所帯だった。7月、長男・浩樹(こうじゅ。のちの松方弘樹)誕生。

そのさ中に召集を受け出兵。第19師団を有した朝鮮は羅南で終戦を迎えた。その後は中国・延吉に送られ、1年9か月の間、捕虜生活を送った。劣悪な環境で栄養失調になり発疹チフスや壊血病に苦しんだという。その後シベリアへ連行される予定だったが、食事を摂らず痛がる演技をするなどして、連行を逃れている。1946年、赤羽で復員から除隊した。

1947年8月、次男・祐樹(のちの目黒祐樹)が誕生。 その後は実演を再開、多くの映画俳優が映画界に復帰する中、近衛は1952年まで10年間にわたり、実演興行に拘り続けた。しかし、1940年代末期、GHQによるさまざまな規制が緩和され、実演興業でも浅草を中心にストリップが息を吹き返すと、客足は一気に流れ、剣戟芝居の人気は衰退の一途を辿っていった。

1953年、新東宝で映画界に復帰するが、端役同様の扱いからの出直しを余儀なくされていた。そんな中、松竹では、大映との契約が切れ、松竹時代劇を支えていた阪東妻三郎が死去した。時代劇のチーフ監督、大曾根辰夫は近衛を気に入り、スカウトする。

1954年には正式に松竹に移籍、時代劇で悪役筆頭や主役と同等の立ち役を務め、阪妻亡き後の松竹時代劇の屋台骨を高田浩吉と支えることとなった。1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』で本格的に主演を務め、近衛を主演スターとして売り出そうとなった矢先の1959年、松竹は時代劇映画制作からの撤退を発表した。

1960年、東映に移籍。近衛は既に移籍していた高田浩吉や、同時期に移籍した品川隆二、黒川弥太郎とともに第二東映の看板スターとして活躍する。しかし第二東映は「東映」の名を冠しながらも片岡千恵蔵、市川右太衛門クラスのスターは出演できないルールがあり、興業収入はおよそ本家には及ばなかった所から1961年、劇場用映画から撤退、近衛はじめ所属俳優は東映本社所属となる。その後、その主演作は白黒作品ばかりではあったが、ヒーロー然としないニヒルな浪人役など阪東妻三郎的ともいえる役柄を得意とし、人気俳優となっていく。
『柳生武芸帳』シリーズ(1961年 - 1963年)では主役の柳生十兵衛を演じる。剣戟スターとしては器用ではないが異様な迫力が人気を呼んだ。また速い剣捌きで迫力ある殺陣を魅せるため、通常より柄(つか)の長い刀を使用したのも近衛の発案によるものであった。

1965年、東映の任侠映画路線への移行を受け、フリーとなり、NETテレビ(現・テレビ朝日)で放送されたテレビ時代劇『素浪人 月影兵庫』に主演。近衛の鬼気迫る立ち回りに加えて品川隆二演ずる焼津の半次とのコミカルな掛け合いが人気となり、茶の間の大ヒットを呼ぶ。素浪人シリーズは高視聴率のとれる人気番組として以降1969年『素浪人 花山大吉』と続いたが持病の糖尿病が悪化、1970年末、ドクターストップがかかり一旦終了を余儀なくされる。
1973年4月に『素浪人 天下太平』を再開、同年10月には次男・祐樹と共演した『いただき勘兵衛 旅を行く』と継続したが、2年3ヶ月のブランクで既に最盛期の人気を取り戻すには至らず、近衛自身も「愛着はあるが、進歩が無い」と、自らこうしたコミカルな路線からの卒業を申し出てこの作品を最後にシリーズは終了となった
テレビ出演の傍ら、映画やテレビ時代劇のゲスト、舞台への出演も精力的にこなしている。特に映画では1967年12月公開の大映作品『座頭市 血煙り街道』(監督:三隅研次)に主演の勝新太郎に請われて出演。勝演じる市と雪の降る中で繰り広げた迫真の殺陣シーンが評判となった。

テレビのレギュラーシリーズ終了後は単発でのゲスト出演などをこなすが、体力の低下が著しく、1976年には事実上引退状態となり、晩年は各種の会社経営者として余生を送った。トルコ風呂(ソープランド)やモーテル、釣堀の経営者でもあった。引退状態となった理由としては健康状態に加え、この年の7月25日に心の支えであった妻のやゑが胃がんのため死去したことが大きく影響していた。近衛は妻が亡くなる前に1度倒れている。糖尿に加え肝硬変や高血圧を抱えており、この時医師から「あなたの心臓は100までも生きられる心臓やけど、今度倒れたら生命に関わる」と宣告され、飲酒を厳しく戒められていた。しかし生きる張り合いを失った事で、この直後から、それまで節制していた酒を浴びるように飲むようになり、趣味の釣り三昧の毎日となる。釣りの最中も傍らには酒瓶が転がっていたという。
1977年5月20日、長男・松方との共同出資で京都府亀岡市に作った釣堀「天国」で松方とヘラブナ釣りを楽しんでいた最中に脳内出血で倒れ、近所の南丹病院に搬送された。一時意識を取り戻すが左半身が麻痺、収縮期血圧は260を示す。脆くなった血管は次々と切れていく状態で近衛の病状は悪化の一途を辿り、22日夜からは昏睡状態となった。
1977年5月24日午前1時55分、意識が戻らないまま近衛は息を引き取った。63歳没。妻の死去から10か月後のことであった。既に病の影響で顔貌に往年の面影は全くなく、品川隆二が葬儀に参列した際には「顔を見ないでやってくれ」と言われたほど痩せ衰えていたという。
出棺にあたっては松方と目黒が遺体に、好きだったスコッチ・ウイスキー「ジョニー・ウォーカー」を振りかけ、棺には愛用の柄の長い刀、へら竿や浮き、愛用の眼鏡3個、愛煙していたセブンスター10箱ほどなど、ゆかりの品が一緒に納められた。法名は「無侶院釋重道」



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